自分のワクワクすることに忠実に
前刀 禎明さん
株式会社リアルディア 代表取締役社長
メンター三田会 幹事
経歴
ソニー、ベイン・アンド・カンパニー、ウォルト・ディズニー、AOLを経て、ライブドアを創業。スティーブ・ジョブズ氏から日本市場を託され、アップル米国本社副社長 兼 日本法人代表取締役に就任。独自のマーケティングでiPodを大ヒットに導き、危機的であったアップルを復活させた。現在は、ラーニング・プラットフォーム開発やセルフ・イノベーション事業などを手がけている。AI inside株式会社 取締役CMO、mui Lab株式会社 エグゼクティブ・アドバイザー、株式会社MGNET クリエイティブ・アドバイザー。
著書は『僕は、だれの真似もしない』(アスコム)、『学び続ける知性 ワンダーラーニングでいこう』(日経BP)など。
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「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」のポリシー
学生時代は、勉強はあまり好きではなくて成績も悪かったですね(笑)。中高一貫校に通っていて、いわゆる進学校だったんですが、あまり真面目に勉強していませんでした。特に文系科目は暗記が多くて、好きじゃなかった。
歴史は、ストーリーには興味があったんですが、単純な年号の暗記はいいやってなっちゃったんだよね。そのせいもあり古文漢文も嫌いでした。それでも、漢文の1フレーズだけは印象深くて覚えていて、いまでもポリシーにしています。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」。ツバメや雀の小さな鳥は鴻鵠などの大きな鳥の気持ちは分からないよ、と思っていると気持ちに余裕が出るというか、大きな気持ちでいられるんだよね。
先生には従わず、自分を貫いた高校時代
高校で理系を選んだんだけど、選抜クラスには選ばれないまま受験に臨みましたね。
高1の時から模試を受けていて、志望校はいつも東工大・早稲田・慶應って書いてたけど全部E判定だったんだよね(笑)。高3までずっとそんな感じ。でも、高1から高2の春休み、高2から高3の春休みの模試の成績はなぜか良くて、「3度目の正直で受かるかも、運も実力のうち」って思ってた(笑)。
合格率を気にする進学校だったから、先生たちが実力相応な大学を受けさせようとしたんだよね。父親が同席した三者会談の日、先生の第一声が「前刀、寝ぼけてちゃダメだぞ」。僕の返事は「はい、起きてます!」。先生もあきれちゃってた(笑)。
先生には、名古屋工業大学の夜間や偏差値が低い私立大学を勧められたんだけど、頑なに拒否して、すべり止め受験の勧めもはねのけて受験しました。そしたらたまたま慶應だけは受かったんだよね。
先生たちも手のひら返しの態度をとり、「名古屋工業大学(夜間じゃなくて)も受けてほしい」と言われましたが、合格率アップには協力しないで慶應に入学しました。
自分でゼロから始めた研究で進む
理工学部では単位を取るのが大変でした。3年生に上がるとき、留年確定しそうだった。ところが3科目は落としたんだけど、進級条件だけはうまくパスできたんです。
3年生になるときに専攻を決めて、管理工学科に行きました。ビジネススクールみたいな感じです。というのも、日吉にいる間、「これからはコンピューターの時代だ!」と思い、KCS(慶應コンピュータソサエティ)に入ってたんだけど、プログラミングには興味をもてなかった。目の付け所は良かったんですが、純粋にテクニカルなエンジニアではなく、経営戦略のほうに興味がわいてしまって。それで管理工学科に行きました。
研究室では、だいたい先輩の研究を引き継いで卒業論文を書くんだよね。だけど、僕はそうじゃなくてゼロから自分の研究を始めました。アメリカの自動車市場のポートフォリオアナリシスを行い、企業の競争動向を予測して、卒論は通りました。
進路は大学院を目指したんだけど、成績が悪くて推薦では行けなかった。受験組の勉強会も行ってなくて、周りからは「前刀は諦めたね」って言われてたんだよ。それでも、自分では何となく受かる気がしていたんだよね(笑)。結局合格したけど、大学院に入っても成績はパッとせずでしたね…。
「競争率は関係ない。偉くなるやつは偉くなる」
大学院のあとは就職を考えてたんですが、理系では学校推薦で就職できるから、そこを狙ったんです。当時ソニーがすごく人気で、管理工学科には学士3枠と修士には2枠で計5枠があったんだけど、修士2枠に20人以上応募があった。僕もそのうちの1人でした。
先生との1対1面談と、成績で決まるものだった。全員が「成績で判断されるなら、前刀は無理、残念だね(笑)」って言ったので、僕は「最後まで分からないだろ?」と言い返しました。
先生は「ソニーだと選りすぐりの優秀な学生が集まるから、出世しにくいぞ」と話し、応募者を他の企業に誘導していました。大半の学生は「そうですね」とソニーを諦めていました。
でも僕は、「競争率は100倍だろうが1000倍だろうが、偉くなるやつは偉くなります」って。先生は「それはそうだけど」って…。そしたら結果、推薦をもらえた。しかも、学士1人の枠を食って、修士3枠目。他二人は成績優秀だったから、僕は面談での発言が良かったんだろうね。
独自のテーマと研究姿勢が高評価
学校推薦でソニーに行けるのが決まったのはいいんだけど、修士論文を認めてもらわないと修了できない。
修士論文は、自分の研究室の先生じゃない先生に発表して評価をもらうんですが、こともあろうか一番厳しい先生に当たっちゃった。教授が発表準備に付き合ってくれてたんですが、前日の夜に「俺は帰るぞ、明日はぶっつけ本番で頑張れ」と言われてしまいました。それでも少しでも印象を良くしようと、質問を予想して、用意していたんです。
発表本番、予想していた質問が来た。だけど、その時、プレゼン資料をばらまいてしまい、「もう時間ないからいいよ」と言われ、答えることもできなかった。
発表はこんな感じでボロボロだったんだけど、「前刀、通ったよ。なんでかわからないけど」って先生から言われたんですよ。「テーマが良かったんですよ」って先生に言いました。
修士論文でも、先輩の研究を引き継いでテーマにするのが慣例でしたが、僕は今回も独自のテーマで研究。半導体の市場動向と価格変動を見ながら、どのように生産ラインをミックスすればよいのかを決める戦略的設備投資計画モデルを作った。
当時はパンチカードっていう紙に穴をあける方法で行うプログラミングが主流でしたが、発売されたばかりの16ビットパソコンを使い、プログラミング言語BASICでモデルを作り、実際の沖電気のデータを使ってシミュレーションしたんです。そのオリジナリティが評価されたんだろうね。
何年かして矢上キャンパスを訪れたら、なんと僕のレジュメがお手本として貼ってありました(笑)。シンプルにまとめるのは上手くて、認められてたんだと後になって分かりました。
発表は無事に終わったのですが、論文を締め切りまでに提出するのも大変で(笑)。エレベーターを待っていたら間に合わなくて、管理工学科があった6階から階段を駆け下りました。別棟の図書館から走ってきて、ガラスの扉に激突した人もいました。そんな熾烈な争いを繰り広げながら、なんとか期限内に提出し、修士課程を無事修了できました。
フラットな関係の自由闊達なソニー
ソニー入社時に営業職を希望たら、「理系で院まで行って営業希望とは珍しいね」と人事には言われました。「メーカーは製造して販売するところ、僕は機械や電気のエンジニアではないから市場に近い営業を希望」と説明しました。
希望は通ったんですが、配属先は放送局などにプロ用のビデオ機器の海外営業部門で厚木勤務。「なんでソニーに入社して品川じゃないんだ、厚木なんて」とガッカリしてました。
ソニーって、肩書きで呼ばないんですよ。「○○部長」ではなく、「○○さん」って呼ぶ。素敵だなぁと思いました。年齢や肩書きなど関係なく付き合うという感覚はそこで作られました。
実はこれ、社長だった創業者の盛田さんが入社式で話してくれたことだったんですよ。
苦手な英語での交渉にチャレンジし、道が開けたソニー時代
アップルでスティーブ・ジョブズと働いていたって言うと、僕はすごく英語を話せるように思われるけど、もともと英語は苦手だったんですよ。
ソニーは英語研修の制度が整っていて、本当にお世話になりました。1ヶ月英語漬けになる特別プログラムがあって、主に海外赴任するエンジニア向けだったんだけど、海外営業の自分も受けさせてもらってました。しかも2回も。全くの異例でした。将来期待されてたんだと思います、転職しなければ冗談抜きに社長やっていたと思うなあ。
当時、円高の影響で本社の収益が下がっていたんです。海外支社との取引は外貨建てだったので、為替差損をカバーするためには値上げが必要でした。その交渉のためにソニーオーストラリアに行くことになりました。それまで海外に行ったことがなかった僕が一人で海外出張。英語は依然として苦手だったけど、グラフの見せ方やプレゼンが上手くいって、何とか価格改定に成功しました。
その成果が、普段なかなか褒めない本部長に認められて、直属の上司だった課長も驚いていました。その後、新設された事業開発本部の立ち上げメンバーに抜擢されました。新規事業ですからやりがいがありましたね。ですが、役員同士の争いで本部は解体されてしまい、僕は映像通信ビジネスの事業本部に異動となり、厚木に戻りました。
88年ソウルオリンピックのとき、朝日新聞社に写真を電話回線で送るシステムを貸し出しました。それまでは、撮ったフィルムを飛行機で持ち帰っていたので、新聞に写真が載るのは早くて翌日でした。しかし、朝日新聞はそのシステムを使って、陸上競技 男子100m決勝の写真をその日の夕刊に載せたんですよ。画期的でした。
ソニーには海外のビジネススクールへ留学できる制度もありました。MBAに興味があったので留学したかったけど、英語も数学の勉強も苦手だったから社内で選ばれるレベルではなかったんです。その時、同期の友人に「前刀はビジネススクールで学ぶよりも実践のほうが向いてると思うよ」と言われたんです。後から振り返ると、本当にそうだったなと思います。
その言葉は、ベイン・アンド・カンパニーへの転職を考えるきっかけになりました。辞める決断をして、人事と面談したときに「もったいないよ」「投資損だ」と言われても、「自分を厳しい環境に置きたいんです」「必ず恩返しします」と言い、転職に踏み切りました。
なのに、「Goodbye MD」と銘打ってiPodを売り出し、ソニーを敵に回すんですけどね(笑)
思考トレーニングとなり自分の志向を確信した―ベイン
上司はアメリカ人だし、英語でのコミュニケーションに加え、ロジカルシンキングなど慣れないことばかりで苦労しました。すべての資料にメッセージがないといけないのですが、資料を提出しても「so what?」と詰められ、黙っていると「come on!」とまた詰められる。スライドを作っても「頭使っているのか」と怒られたりしてました。今だとモラハラかも(笑)。ベインでは常識だった、ロジックツリ―を使うことやMECE(漏れなくだぶりなく)も知らなかったので苦労したなあ。
でも、ベインに行って、思考のトレーニングができたことはよかったなと思います。
このコンサル経験を経て、自分は人のことをとやかく言うよりは、自分のことをやるほうが情熱をかけられるなと、あらためて認識しました。
強気の姿勢でディズニーを成功に導く
ベインを紹介してくれた方のお誘いで、ディズニーの新規事業に参画することになりました。まずはディズニーの通販カタログ事業の立ち上げです。
当時ディズニーストアがなかったから、ディズニーグッズを買おうとするとディズニーランドに行くしかなかった。ディズニーストアを拡大すると同時に、さらにお客さんが楽しめるようにということで通販をやることになりました。単独で通販事業を立ち上げようとすると、物流センターへの投資など大変なので、大阪の千趣会と組みました。
ディズニーグッズはメーカーからディズニーにロイヤリティが支払われます。だから商品が売れるだけでもいいのですが、カタログ販売する千趣会からもロイヤリティを取ろうとしました。「ディズニーの二重取りじゃないですか」と千趣会から言われ、交渉は長引き7か月かかりました。「ディズニーの価値を使うことで新しい事業を立ち上げられますよね、そこにロイヤリティが発生するんです」と説得し、なんとか通販カタログの販売に踏み切ります。
カタログ創刊時の発行部数は100万部、通販では購買率2〜3%で大成功のところ、なんと20%越えの驚異的な大成功を収めました。
もう一つはCD-ROM事業。ディズニーインタラクティブというブランドで、一気にシェアを獲得するために、CD-ROMとPCのバンドリング、つまりセットにして販売しました。当時パソコン市場の50%以上を占めていたNECをパートナーとして交渉しました。
CD-ROMをつけると1台につき100円のロイヤリティが平均的だったのですが、ディズニーは2枚で1000円のロイヤリティをもらおうとしました。コンテンツメーカーよりPCメーカーが強い立場でしたが、強気で交渉し、なんとか合意に至りました。米国本社の法務担当と通訳も一緒に22時間連続で交渉した日もありました。
NECのパソコンにつけたのはミッキーマウスではなく、くまのプーさんとライオンキングのCD-ROM。
ライオンキングを使ったテレビCMも好評で、結果的に大ヒットしました。ウケたのは、子どもが主人公のシンバの動きに合わせて「ライオンキング」って英語っぽく叫んで嬉しそうにするシーン。ディズニーのNo.1戦略に乗っ取って、強気の交渉をしてよかったですね。
社長として大切なことを学んだライブドア
ライブドアの創業についてですが、VCに出資してもらっていたので、自分たちの発言力がそこまで強くありませんでした。無料プロバイダとして起業して、新しい時代を拓くライフスタイルブランドを創りたかった。インターネット利用のためのダイヤルアップ接続で発生したトラフィックによる料金からキックバックをもらうユニークなビジネスモデル。ですが、最大のパートナーだったワールドコムが破綻した影響で、ライブドアも経営が悪化し、民事再生と営業譲渡をすることになってしまいました。ちなみにワールドコムの経営破綻は、リーマン・ブラザーズに抜かれるまでアメリカ史上最大でした。
こんなこともありました。ある日突然、社長から会長に棚上げされて、アメリカ人が社長に就きました。まさにスティーブ・ジョブズがアップルを追い出されたときのような状況でした。半端なく悔しかったね。
新社長は売上が伸びないにもかかわらず、社員をどんどん増やしてしまった。このままでは会社が危機的な状況になると考えて、自分が社長の座に戻り、経営を立て直すとVCに直訴しました。社員一人ひとりと面談して事情を説明して納得してもらい、合意のもと半数の社員に退職してもらいました。
そして立て直しに着手した矢先、今度はパートナーが突然の経営破綻。そして民事再生を余儀なくされました。民事再生手続を進めながら社員の転職活動をサポート。無事全員が新しい仕事に就くことができました。最後まできっちり面倒を見きれてよかったです。
ライブドアの経験から学んだことは資本政策と不測の事態への対応。自分のやりたいことがあるならば、発言力を持つまで外部からはお金は入れない。さらに、どんな状況になろうとも会社を存続させられるように備える。経営者として本当に大切なことを学びました。
自分のやり方でアップルを復活させる
ライブドアを譲渡した当時、アップルの日本の状況はあまりいいものではなかったんだよね。みんなWindowsに流れている状況だった。Macはクリエイターに人気だったけど、クリエイターでさえWindowsに流れていました。アップルストア銀座店がオープンしたんだけど、人もあまり来ない状況。どんどん苦しくなっていきました。
アップルは、この危機的な状況を打破する責任者を探していたんです。たまたま知り合いがアップル社内のヘッドハンターに紹介したようで、もともとはあまり興味はありませんでしたが、話だけ聞こうと思いました。
というのも、ベインで働いていた時に、初めて買ったパソコンがMacintosh SEだったんです。なんと60万円、でもメモリは2MB。当時から大好きだったアップルが日本を撤退してしまうのはさみしいなぁと思ったんだよね。社内ヘッドハンターと話して、面接を受けることにしました。
オンラインとリアルで何人かの役員と面接したあとに、日本に来ていたティム・クックと話しました。他の役員にも気に入ってもらえ、スティーブ・ジョブズと面接することに。日本の現状などを議論したのち、「好きなようにやらせてね」とも伝えました。
面接が終わった時、「生のスティーブに会えることなんて2度とないかもしれない」そう思ってスティーブに写真をお願いしたんです。が、「アップルに入ったら撮らせてやる」ときっぱり断られた(笑)。とはいえスティーブには気に入ってもらえたようで、その直後に人事責任者に採用の旨を伝えていたそうです。
そうして入社した後、アップルストア総責任者のロン・ジョンソンとミーティングがあったんです。しかし、約束の時間になっても先客がなかなか出てこない。誰かと思って覗いたら、スティーブだった。さすがに時間だから交代してとは言えずに立って待っていたら、スティーブが入ってこいと呼んでくれて、3人で話すことになりました。
ロンは「アップルストアで売れないのは、銀座という立地が悪かったのではないか?」と悩んでいました。意見を求められたので、僕は「アップルを日本で復活させるためにブランディングするには、銀座は最適な場所だ。あとはやり方だ」と言ったんです。するとスティーブが「彼は消費者視点だから信頼できるよ。だから安心して大丈夫」と後押しをしてくれました。
そしてスティーブが自分の部屋に戻ろうとしたとき、「ちょっと待ってスティーブ。一緒に写真を撮る約束をしたよね」って言いました。すかさず持っていたデジカメをロンに渡し、ツーショットを撮ってもらいました。スティーブって、目の前で機嫌を損ねるとすぐ社員をクビにしてしまうので、この写真はとっても貴重なんです。
「日本をなんとかしてくれ」スティーブは僕にこう言いました。「じゃあ、好きなようにやらせてくれ」それが僕の回答。そして日本独自のマーケティング手法でiPod miniを登場させました。
このアプローチが大成功してアップルのブランド力が一気にアップ、Macの売上も回復しました。ビジネス全体が勢いづいて、予想以上に早く日本市場でアップルを復活させることができたんです。
「もう自分じゃなくてもいいな」そう思い始めていました。最長3年しか働かないと決めていました。米国企業では上手くいって軌道に乗ると本国の言う通りにやれと指図されるケースがよくある。それは嫌だったので、もともとアップルも在籍はMax3年かなと考えていました。次のチャレンジをしたいという気持ちを抑えきれず、退職しました。
アップルで働いてよかったなと、あらためて思うことがあります。
アップルストアに行ったときに声をかけられるんです。初期不良のiPhone 7をアップルストア渋谷で交換してもらったときに「僕、以前は銀座にいたんです。前刀さんに盛り上げていただいて…」と感謝されたり、「お会いできて光栄です」なんて言われたこともありました。なんとそのスタッフは、僕がアップルを辞めた後に入社したと聞いてびっくり。アップル好きな人は歴史まで知っているんです。
人々がワクワクしてクリエイティブになれるものを―リアルディア
子ども向けの教育事業を行っています。とはいっても、親の価値観が影響するので、親向けの講演会なども行っています。
「DEARWONDER」という創造的知性を磨くアプリを使って、三田国際学園の生徒とキャリア教育をしています。中高生と一緒に会社組織のようなものを立ち上げ、学園祭に来た小学生向けのワークショップなどを開いています。学生と同じ目線になって活動するのは面白いですね。
「ワンダーラーニングでいこう」という考え方を提唱しています。
人がワクワクしながら好奇心をふくらませ、いろんな画像を検索して自由に創造したり、発信したりできるというプラットフォームも創っていますよ。
「年上だから育てよう」ではなく「一緒に育とう」―メンター三田会へのメッセージ
経験だけに頼った古めかしい話をするのではなく、これからの時代でも役立つようなことをともにするのが大切だと思います。上から目線ではなく、横からのフラットな関係で支援したい。
年齢的な差があるのだから、年上の会員から気を遣ってあげるべきだと思いますね。
学生でも会員でも、年齢に関係なく「いま」を生きてほしいです。いま起きているこの瞬間のことを考えてほしい。そのほうがメンター・相談者の双方のためになると思います。
学生も会員も互いに刺激し合って、いくつになっても成長することができる環境だといいなと期待しています。
若い人たちには頑張ってほしいですが、同じく僕もまだまだ頑張ります、負けませんよ!
自分を信じる心を持ち、常に自分の力で前進する
とにかく前例がないことをやるのが大好きなんだよね。自分の手で0から成し遂げたい。自分ならではの価値を生み出したい。今ここに市場があるものを作って世に送り出すほうが、ビジネス的には楽だけど、それは嫌なんだよね。面白くない。
もちろん、そう簡単でないこともわかっています。不安に思い始めたらすごく不安になるもの。でも、自分を信じることが大切なんだよね。それこそスティーブが言うように「Have the courage to follow your heart and intuition.(自分の心と直感に従う勇気を持とう)」は僕も大切だと思います。
僕には「誰の真似もしない」というのがポリシーとしてあります。他人と比べるのではなく、昨日の自分と比べる。成長実感とともに生きていくのが良いんだよね。
とはいっても、自分が働いた会社の創業者は尊敬する人であるとともにライバルでもある。だから彼らには負けたくないという思いは強いです。
大河ドラマ「青天を衝け」の最終回には、すごく好きなシーンが2つあって。回想シーンで渋沢栄一が、畑を耕しながら「まだまだはげむで〜!」と叫ぶシーンと、山の上で太陽をつかむシーンです。まだまだやれるって感じがとても好きなんです。僕も無限の可能性を信じて、まだまだ前進していきます。
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