若者が働きやすい社会を残す
木村 尚敬さん
株式会社経営共創基盤 共同経営者(パートナー) マネージングディレクター
メンター三田会 幹事
株式会社経営共創基盤(IGPI)の共同経営者の一人として
私は現在、株式会社経営共創基盤(IGPI)の共同経営者の一人として、主に日本企業の変革にかかわる仕事を行っています。
IGPIは主に3つの領域で活動を展開しており、1つは経営コンサルティングやM&A支援などのアドバイザリーサービス、2つ目はIGPIとして投資や買収を行い、企業経営を行う領域、具体的には地方創生を推進する日本共創プラットフォーム(JPiX)や、幅広く公共交通事業を行うみちのりホールディングス、南紀白浜空港などです。3つ目はインキュベーションで、特に北欧でVCの運用や産学連携のプラットフォームなどを構築しています。
このように領域は様々ですが、根底に流れるのは、自ら経営のドライバーシートに座るということなんですね。ハンズオンで長期的な企業価値向上に取り組むというのが我々のスタイルです。
大学2年生時に自分の会社を創業
学部は、経済学部です。志木高時代は、バスケットボール部のキャプテンで、常日頃バスケットボールに明け暮れていました。内部進学で人気の高い学部が、当時ちょうど経済学部から法学部法律学科に代わるような時期でしたが、法律よりも、経済の方がしっくりくるということで、経済学部を選びました。
社会人としてのキャリアのスタートは、大学2年の秋に自分で会社を創業したことです。当時はベンチャー企業やベンチャーキャピタルなんてほとんど存在しておらず、ましてインターネットはこの世に存在していないような時代でした。
当時は、バブル絶好調の時期で、就職は空前の売り手市場だったんですよ。なんでそんな時期に起業したのかというと、当時、私は韓国籍でした。今は帰化してますが、当時はまだまだ差別が根深く、日本企業への就職はかなりハードルが高かったのです。それで、医者や弁護士になるほど頭の出来が良いわけでもなく、景気もとても良かった時期だったので、ノリで起業するかと言って始めたのが正直なところです
ただ、事業モデル的には割と面白いことを考えていて、イメージ的にいうと楽天なんですよね。私は情報流通産業という言い方をしていて、要は、世の中には物を特別なルートで仕入れられるけれど売り先がない人がいますよねと。一方で、物を安く買いたい人や色々なものにアクセスしたい人も多いですよねと。そこを繋ぐプラットフォームを作ろうというのがビジネスモデルの発想だったんです。
これは、カタログ販売からヒントを得て思いつきました。情報の非対称性が商売になるということを初めて気づいたのがリクルートの江副さんですが、それと同じようなことを思いついたという感じです。先ほどお話しした通り、当時学生起業家というのはとても珍しく、フライデーに載ったりとか、フジテレビに取材に来てもらったりもしました。
20歳に会社を作って、30歳までやりました。少しずつピボットしていって、最後は貿易で、海外から色々と持ってきたりとか、今風に言うとファブレスメーカーのように、色々な物を企画して、それを第三国の安いところで作って大手メーカーにOEMで納めていました。
グロービスとの出会い。経営学を学ぶ
一方で、事業運営を通じて、わからないことがたくさん出てきたんですよね。黒字なのにお金がない、とか。年末に在庫の額を調べて、それによって利益が大きくぶれちゃうとか。つまり自分の中で、事業と数字が紐づいてなかったんですね。そこで経営についてもう少し真面目に勉強しようと思っていたところ、グロービスに出会いました。昔はグロービスマネジメントスクールと言っていましたが、そこで経営学を真面目に学び始めたのが、96年でした。
20代後半は、稼いだお金をほぼ全部勉強に注ぎ込んでいましたし、土日含めて勉強していた記憶しかありません。実際、経営戦略やファイナンスなどを学びだしたらとても面白くて、それならもっと深堀してみようと思い、海外留学にトライしてみようと考えました。ちょうどそのタイミングで、知人の日本NCRの部長さんに相談したのですが、「留学もいいけど一度社会勉強をした方がいい」と言われ、日本NCRに約2年ほどお世話になりました。ここで初めて、THEサラリーマンの世界を勉強させられましたが、今でも多くの大企業の変革を行っていくうえで、この時の経験がとても活きています。
そしてイギリスに留学をして、MBAとファイナンスのマスターの2つ取得しましたが、残念ながらゴルフなど楽しむ余裕は全くなく、自費留学でもあったので、勉強漬けの毎日でした。
コンサルティングファームにて人事、経営戦略の足腰を鍛える
帰国後、米系人事コンサルティングファームのタワーズぺリンに入社しました。キャリア的には?と思われるかもしれませんが、ストックオプションなど含め事業パフォーマンスと報酬を連動させるような流れが起きていた時期で、事業のKPI設計やそれに紐づく報酬設計など、学んできたファイナンスの知識を最大限活用できる仕事で、とても充実していました。加え、人事制度設計などこれまで経験のなかった領域にも踏み込むことができ、大きく幅が広がりましたね。
その後、米系戦略コンサルティングファームのアーサー・D・リトル(ADL)に移り、そこで約4年、みっちりと経営・事業戦略についての足腰を鍛えました。
IGPIの創業に飛び込む
ちょうど30代後半に差し掛かり脂の乗った時期だったのですが、ヘッドハンターからお声がかかり、IGPIという会社ができるという話を伺いました。事業や財務などを統合してリアル経営に踏み込むといった、私のこれまでの経験が活きるであろう事業理念に大きく共鳴し、またもう一度当時はベンチャー企業であったIGPIを大きくするということにチャレンジしたいなと思い、思い切って飛び込んだ次第です。
創業当初で1番大変だったのは、いろんなバックグラウンドの人が集まってきたため、会話が噛み合わないことがあったことです。ただこのカオスなところが私たちの付加価値の源泉で、カオスであるからこそ、多様なものの見方だとか考えが出てきて、色々な付加価値に繋がっていくのですが、それがしっくりと回りだすのには、相当の時間がかかりました。
「迷ったら動け」
自分のキャリアを振り返ってみて、明確な道が最初からあったわけではないです。ただ、スティーブジョブスの有名な演説”Connecting the dots”さながら、過去にやったことが全て線につながっていて、NCRでの経営とIT、タワーズぺリンでの経営と人事、ADLでの経営と事業戦略、それらが全て有機的に繋がって現在の仕事に役立っています。ですので、私自身の経験から言えば、キャリアはあまり思い通りにはならないし、あまり考えすぎるのは良くないと思います。私の信条は「迷ったら動け」なので。
メンター三田会をどういう場にしていきたいか
メンター三田会と初めて接点を持たせていただいたのが2011年くらいからです。幹事をやっているのもある意味恩返しで、もっともっと慶應発ベンチャーが出てくるべきだと思っているので、そこに貢献できたらなという思いでやっています。もっと学生の方がフラットに参加できるコミュニティにメンター三田会をしたいです。フラットに相談ができて回答が来るような。
今後のビジョン
どんどん日本の競争力が落ちているほとんどの原因は、改革や変革を阻むもので、企業も若者にとって働きやすく活躍しやすいように新陳代謝をかけていかないといけないです。
大企業を中心にこれを打破しない限り日本は良くならないと思いますし、今まで当たり前だと思っていた慣行を変えていくことが必要です。とにかく、いろいろなレベルで古くて硬い既得権益層の岩盤を壊していかないと若者にチャンスはないと思うし、日本に未来はないと思うんですよね。私はまだ子供が小さいので、自分の子供たちに住みやすい、働きやすい社会を残していくということが使命だと思っています。
インタビュー担当:KBC18期 宮﨑悠生 KBC18期 中村賢汰
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