空の検索で82件の結果が見つかりました。
- 第3回 アントプレナー入門 ~自分を解放する・創る・超える~
会員の皆様へ メンター三田会事務局の岩本です。 本日、 11月15日(水)18:30~20:00@日吉キャンパス協生館2階EDGEルーム は、前刀さんがご登壇されます! 本日も皆様のご来場お待ちしております! 尚、本日は、前刀さんが宮地さんの授業で講演後にいらっしゃるため、 いつもより学生も多く、立ち見になる可能性もあることを予めご了承頂ければと思います。 毎回、刺激的なお話と、学生との交流で盛り上がっています。 本日も宜しくお願いします。
- 2023年11月 塾員イントラプレナー(企業内起業家)によるパネル討議イベント
メンター三田会にて、塾員・塾生を対象とした、イントラプレナー(企業内起業家)のパネル討議イベントを開催します。 スピーカー4名(以下)はいずれも大企業の中で新規事業を立上げ、子会社の社長として経営をされている塾員の方々です。 ・SEE THE SUN社 金丸社長 ( ’98年環卒、森永製菓入社) ・千里中央公園パークマネジメント社 杉本社長 (‘ 98年経卒、阪急百貨店入社) ・マクアケ社 中山社長 (‘ 06年法卒、サイバーエージェント入社) ・ClaN Entertainment社 大井社長 (‘ 17年商卒、日本テレビ放送網入社) 当日は、創業の経緯や企業内起業ならではの難しさなど、スピーカーの皆様の実体験をベースに語っていただく予定です。 特に以下に該当する方々、参加をお待ちしております。 ・大企業で新規事業に取り組まれている塾員の方 ・取り組みたいと思っている塾員・塾生の方 ・イントラプレナーを支援されたいとお考えの塾員の方 開催日: 2023年11月8日(水) 時間 : 開場 18:00 パネル討議 18:30~19:30 懇親会 19:30~21:00 参加費: 7,000円(学部生は無料) 会 場: Shin Tokyo4TH 東京都丸の内3-3-1 新東京ビル4階 主 催: メンター三田会 【活動報告】 11月8日に新東京ビルのShin Tokyo 4THにて、メンター三田会で初めてのイントラプレナー関連イベントを開催。4名の塾員イントラプレナー(以下)に登壇いただき、入社から新規事業の起案、子会社設立に到る経緯や、企業内起業の難しさ等について語っていただいた。20名超の塾生・塾員にオーディエンスとして参加いただき、パネル討議後に交流を深めていただいた。
- 第2回 アントプレナー入門 ~まちづくりとイノベーション~
メンター三田会アントレプレナー入門@日吉無料イベント第2回のご案内 10月25日(水)18:30~20:00@日吉キャンパス協生館2階EDGEルームにて開催するイベントをご案内いたします! 慶應義塾大学特任教授・三菱地所株式会社ソリューション営業部長でメンター三田会副会長の田中克徳さんより、「まちづくりとイノベーション」のお話を頂きます!! 前回は、メンター三田会の奨学生をはじめ、学生にも多くご参加頂き、盛況な会となりました。是非、リアルイベントに足をお運びください!!※申し込み不要です。直接お越しください。 (会場のキャパシティは、20~30名程度となります) 今後も毎週水曜日の18時以降(宮地会長の理工学部での授業終了後)に、会員及び学生が集まれる場を用意しつつ、11/15(水)には、株式会社リアルディア代表取締役社長の前刀禎明さんにご登壇頂きます。 日吉から起業家支援をしていく取り組みに、是非、皆さんもご参加をお願いします!!!
- 第1回 アントプレナー入門 ~シリコンバレー最前線~
【スケジュール】 18:00- 開場 18:30- メンター三田会紹介 18:40- 芦澤美智子准教授による講演 19:00- 質疑応答 19:10- ワークショップ 20:00- 終了後、懇親会
- 若者が働きやすい社会を残す
木村 尚敬さん 株式会社経営共創基盤 共同経営者(パートナー) マネージングディレクター メンター三田会 幹事 株式会社経営共創基盤(IGPI)の共同経営者の一人として 私は現在、株式会社経営共創基盤(IGPI)の共同経営者の一人として、主に日本企業の変革にかかわる仕事を行っています。 IGPIは主に3つの領域で活動を展開しており、1つは経営コンサルティングやM&A支援などのアドバイザリーサービス、2つ目はIGPIとして投資や買収を行い、企業経営を行う領域、具体的には地方創生を推進する日本共創プラットフォーム(JPiX)や、幅広く公共交通事業を行うみちのりホールディングス、南紀白浜空港などです。3つ目はインキュベーションで、特に北欧でVCの運用や産学連携のプラットフォームなどを構築しています。 このように領域は様々ですが、根底に流れるのは、自ら経営のドライバーシートに座るということなんですね。ハンズオンで長期的な企業価値向上に取り組むというのが我々のスタイルです。 大学2年生時に自分の会社を創業 学部は、経済学部です。志木高時代は、バスケットボール部のキャプテンで、常日頃バスケットボールに明け暮れていました。内部進学で人気の高い学部が、当時ちょうど経済学部から法学部法律学科に代わるような時期でしたが、法律よりも、経済の方がしっくりくるということで、経済学部を選びました。 社会人としてのキャリアのスタートは、大学2年の秋に自分で会社を創業したことです。当時はベンチャー企業やベンチャーキャピタルなんてほとんど存在しておらず、ましてインターネットはこの世に存在していないような時代でした。 当時は、バブル絶好調の時期で、就職は空前の売り手市場だったんですよ。なんでそんな時期に起業したのかというと、当時、私は韓国籍でした。今は帰化してますが、当時はまだまだ差別が根深く、日本企業への就職はかなりハードルが高かったのです。それで、医者や弁護士になるほど頭の出来が良いわけでもなく、景気もとても良かった時期だったので、ノリで起業するかと言って始めたのが正直なところです ただ、事業モデル的には割と面白いことを考えていて、イメージ的にいうと楽天なんですよね。私は情報流通産業という言い方をしていて、要は、世の中には物を特別なルートで仕入れられるけれど売り先がない人がいますよねと。一方で、物を安く買いたい人や色々なものにアクセスしたい人も多いですよねと。そこを繋ぐプラットフォームを作ろうというのがビジネスモデルの発想だったんです。 これは、カタログ販売からヒントを得て思いつきました。情報の非対称性が商売になるということを初めて気づいたのがリクルートの江副さんですが、それと同じようなことを思いついたという感じです。先ほどお話しした通り、当時学生起業家というのはとても珍しく、フライデーに載ったりとか、フジテレビに取材に来てもらったりもしました。 20歳に会社を作って、30歳までやりました。少しずつピボットしていって、最後は貿易で、海外から色々と持ってきたりとか、今風に言うとファブレスメーカーのように、色々な物を企画して、それを第三国の安いところで作って大手メーカーにOEMで納めていました。 グロービスとの出会い。経営学を学ぶ 一方で、事業運営を通じて、わからないことがたくさん出てきたんですよね。黒字なのにお金がない、とか。年末に在庫の額を調べて、それによって利益が大きくぶれちゃうとか。つまり自分の中で、事業と数字が紐づいてなかったんですね。そこで経営についてもう少し真面目に勉強しようと思っていたところ、グロービスに出会いました。昔はグロービスマネジメントスクールと言っていましたが、そこで経営学を真面目に学び始めたのが、96年でした。 20代後半は、稼いだお金をほぼ全部勉強に注ぎ込んでいましたし、土日含めて勉強していた記憶しかありません。実際、経営戦略やファイナンスなどを学びだしたらとても面白くて、それならもっと深堀してみようと思い、海外留学にトライしてみようと考えました。ちょうどそのタイミングで、知人の日本NCRの部長さんに相談したのですが、「留学もいいけど一度社会勉強をした方がいい」と言われ、日本NCRに約2年ほどお世話になりました。ここで初めて、THEサラリーマンの世界を勉強させられましたが、今でも多くの大企業の変革を行っていくうえで、この時の経験がとても活きています。 そしてイギリスに留学をして、MBAとファイナンスのマスターの2つ取得しましたが、残念ながらゴルフなど楽しむ余裕は全くなく、自費留学でもあったので、勉強漬けの毎日でした。 コンサルティングファームにて人事、経営戦略の足腰を鍛える 帰国後、米系人事コンサルティングファームのタワーズぺリンに入社しました。キャリア的には?と思われるかもしれませんが、ストックオプションなど含め事業パフォーマンスと報酬を連動させるような流れが起きていた時期で、事業のKPI設計やそれに紐づく報酬設計など、学んできたファイナンスの知識を最大限活用できる仕事で、とても充実していました。加え、人事制度設計などこれまで経験のなかった領域にも踏み込むことができ、大きく幅が広がりましたね。 その後、米系戦略コンサルティングファームのアーサー・D・リトル(ADL)に移り、そこで約4年、みっちりと経営・事業戦略についての足腰を鍛えました。 IGPIの創業に飛び込む ちょうど30代後半に差し掛かり脂の乗った時期だったのですが、ヘッドハンターからお声がかかり、IGPIという会社ができるという話を伺いました。事業や財務などを統合してリアル経営に踏み込むといった、私のこれまでの経験が活きるであろう事業理念に大きく共鳴し、またもう一度当時はベンチャー企業であったIGPIを大きくするということにチャレンジしたいなと思い、思い切って飛び込んだ次第です。 創業当初で1番大変だったのは、いろんなバックグラウンドの人が集まってきたため、会話が噛み合わないことがあったことです。ただこのカオスなところが私たちの付加価値の源泉で、カオスであるからこそ、多様なものの見方だとか考えが出てきて、色々な付加価値に繋がっていくのですが、それがしっくりと回りだすのには、相当の時間がかかりました。 「迷ったら動け」 自分のキャリアを振り返ってみて、明確な道が最初からあったわけではないです。ただ、スティーブジョブスの有名な演説”Connecting the dots”さながら、過去にやったことが全て線につながっていて、NCRでの経営とIT、タワーズぺリンでの経営と人事、ADLでの経営と事業戦略、それらが全て有機的に繋がって現在の仕事に役立っています。ですので、私自身の経験から言えば、キャリアはあまり思い通りにはならないし、あまり考えすぎるのは良くないと思います。私の信条は「迷ったら動け」なので。 メンター三田会をどういう場にしていきたいか メンター三田会と初めて接点を持たせていただいたのが2011年くらいからです。幹事をやっているのもある意味恩返しで、もっともっと慶應発ベンチャーが出てくるべきだと思っているので、そこに貢献できたらなという思いでやっています。もっと学生の方がフラットに参加できるコミュニティにメンター三田会をしたいです。フラットに相談ができて回答が来るような。 今後のビジョン どんどん日本の競争力が落ちているほとんどの原因は、改革や変革を阻むもので、企業も若者にとって働きやすく活躍しやすいように新陳代謝をかけていかないといけないです。 大企業を中心にこれを打破しない限り日本は良くならないと思いますし、今まで当たり前だと思っていた慣行を変えていくことが必要です。とにかく、いろいろなレベルで古くて硬い既得権益層の岩盤を壊していかないと若者にチャンスはないと思うし、日本に未来はないと思うんですよね。私はまだ子供が小さいので、自分の子供たちに住みやすい、働きやすい社会を残していくということが使命だと思っています。 インタビュー担当:KBC18期 宮﨑悠生 KBC18期 中村賢汰
- 社会課題解決に貢献する投資をしたい
大竹 遼さん 株式会社慶應イノベーション・イニシアティブ プリンシパル メンター三田会会員 経歴・キャリア 慶應義塾大学総合政策学部卒業。楽天に入社後、新規事業の立ち上げやマーケティング戦略企画などを担当した後、コーポレートベンチャーキャピタルである楽天キャピタルに所属。スタートアップ数社へのマイノリティ出資やM&A、事業連携等バリューアップを実行。また、アクセラレータープログラムや社内事業創出プログラムの立ち上げ・実行も経験。 「社会課題の解決に貢献する投資をしたい」と、2021年 株式会社慶應イノベーション・イニシアティブ(KII) に参画。デジタル・テクノロジー領域への出資を担当。 ITビジネスへの興味から慶應義塾大学SFCへ 元々実家がライブハウスで、身の回りの大人たちの多くがプロのミュージシャンだったということもあって、自然な流れでその道を目指していました。ただ、キャリアを真剣に考え始めた中高生のころに、ミュージシャンで生きていくことのハードルの高さに加えて、「消えた年金記録問題」のような社会問題であったり、一方で楽天・ライブドアのようなネットビジネスの起業家の成功を目の当たりにしたりと。私自身思考も発散するタイプで、将来も固まっていなかったので、ITビジネスや起業・経営を幅広く学べそうなSFCのことを知って受験して入学しました。 大学時代と起業 大学生時代では、高校でも少しだけ触れていた自転車競技の体育会に入部しました。学業面に関しては、意思決定論・交渉論の授業がとにかく面白くて、起業家の卒業生も多くビジネス実践ができる印南一路先生の研究会に所属しました。 様々な授業やグループワークへの参加を通して、ビジネスセンス(もしくは起業家精神がよいかも)とアイデアを持ち合わせているにもかかわらず、実際のプロダクトは他の人に任せたいという考え方の人が多くいることに気づきました。 この強い違和感が原動力となり、自身の卒業制作では、自らiOSアプリを開発し、リリースに成功しました。実際は、誰にもダウンロードされないという悲しい結果に至りましたが、手を動かすというのは強烈に意識していたような気がします。 同じ意図で、某スタートアップの創業期3人目ぐらいでインターンもやっていてビジネスの「触り」の部分は大学時代に沢山学ばせて頂いたと思っています。 体育会部活の仲間と 研究室時代 楽天グループに入社 相変わらず思考は発散していて、とにかく広くITビジネスが学べるところはどこかと考えて、「IT ✕ ◯◯」の「◯◯」が極端に幅広いと感じた楽天に入社しました。入社した2012年当時でも、楽天は金融もメディアもスポーツもなんでもあり、「IT」と「ビジネス」という漠然とした興味しかなかった自分が飛び込む世界としては一番面白いのではないかと思いました。 折角入社出来たので、幅広く楽天のグループに携われるところにいきたいと思い、様々なサービスを横断的に統括する「グループマーケティング部」という部署に直談判して入りました。最初は楽天モバイルの前身も前身であるMVNO事業のジョイントベンチャー立ち上げを手伝わせて頂いたのですが、イメージしていた大企業のそれとは全く異なり、「バナーづくりから経営戦略まで」何から何まで首をつっこみ、その時はとにかく地道に何もかも手を動かすことをやっていました。 新規事業の立ち上げ・経営に携わったあとは、グループ横断的なカスタマーロイヤリティマーケティングの戦略企画などに携わり、当初入社するときの目的であった、楽天というフィールドで多くの事業を学ぶということは達成出来ていたと思います。 CVCでの活動 そこで出来た社内外のネットワークや経験、楽天そのもののアセットを活用してもっとスケールを持ってキャリアを積みたいと思い、楽天キャピタルという投資部隊にジョインしました。 CVC(コーポレートベンチャーキャピタル)としては、国内外のスタートアップへの戦略投資やM&A、社内起業プログラム・オープンイノベーションプログラムの運営などをやっていました。マーケティング部時代に見てきた各事業部のKPIやニーズにフィットするような戦略的な提携の方針と、投資のリターンの双方を描いていくというのは非常に難易度の高いものでしたが、グループ全体と複雑に連携をしていくという仕事は非常にエキサイティングなものでした。 より社会貢献に繋がる投資を求めて、KIIにジョイン ベンチャーキャピタリストとしてもまだまだ駆け出しという中でしたが、より社会貢献に繋がる投資に携わりたいと考えるようになり、2021年の4月に現在メンター三田会で顧問を務められているKII代表の山岸さんと縁あって繋がり、そこからKIIに入社することになりました。KIIは慶應の資金だけでなく、1号2号ファンド合計で約150億円を様々な金融機関や事業会社などから出資を募り、運用している会社です。その意味合いで独立性が強く、ディープテック領域など含め将来の人間社会を見据えて、金銭的なリターンに加えて、より大きいインパクトを創り出していけることが魅力的でした。 私はITやマーケティングがバックグラウンドなので、ディープテック領域以外にも社会課題の解決を目指すスタートアップに投資をしています。現在私が投資実行した会社では、建設業界の労働課題の解決にチャレンジするSaaS企業や、中小企業の人手不足を解決を目指す会社などがあり、領域としては幅広く担当しています。KIIとしては健康医療領域とデジタル・テクノロジーへの投資を実行しており、2022年11月現在で45社の会社に投資しています。 株式会社慶應イノベーション・イニシアティブ より慶應のアセットを活かした投資をしていきたい 今後は慶應のアセットを活かした投資をしていきたいと思っています。スタートアップへ投資を実行するファンドはたくさんありますが、その中でのKIIの強みとして、慶應内のネットワークの活用、アカデミアとの深い連携があると考えています。慶應の中にある知財を活用したり、経営陣に慶應の出身者がいるスタートアップをはじめ、将来的に慶應との連携が考えられるスタートアップへの投資を実行しております。 実は現在、慶應の先生と創業案件も進めています。大学の中にある知的財産等を会社として広げていくことで、より多くの人にベネフィットを届けるために拡大していけると考えています。KIIとしては、そこで投資を実行して、企業の成長によってインパクトを残しながら、結果的にファイナンシャルなリターンを得ることが出来ます。このように、私自身が楽天で得てきた経験をKIIで活かしながら、慶應の研究成果の社会実装を通して、投資のサイクルを創っていきたいと思っています。また、KIIを通じて慶應のアセットを慶應関連以外の人にも活用してもらうことで、より慶應自体に起業の機運が上がっていけばいいと思っています。 メンター三田会との出会い KIIの社長である山岸さんがメンター三田会の顧問という形で関わっていたことと、KIIが寄付講座として提供していたSFCの「アントレプレナーシップ概論」と言う授業を支援した際に、メンター三田会の会長である宮地恵美さん、幹事の新村和大さんや飯盛崇さんに出会ったことが、メンター三田会を知ったきっかけでした。そこで経営者や起業家など様々な経験を持つ卒業生の方たちが、相互に支援しながらアントレプレナーシップを醸成していくメンター三田会のことを聞き、いち卒業生として力になれることは無いかと思い、加入することとになりました。 メンター三田会には様々な相談が来ます。それを事務局長の池田さんがマネージして、メンター三田会のネットワークに共有しています。私は普段それらの中から、自分が力になれると考えられるものについて相談させて頂き、場合によってはKIIとしての投資検討を行うこともあります。 「スタートアップ元年」にメンター三田会は何をしていくか 今、慶應内部でも「慶應からスタートアップを生み出していくエコシステムづくり」が進んでいます。慶應義塾全体として、スタートアップを生み出していこうという機運が高まっていると感じています。これは慶應だけでなく、国策として「スタートアップ元年」が標榜されるように、国全体としてのムーブメントだと考えています。 慶應という文化やネットワークといったようなアセットをどうやってレバレッジしていくのか。メンター三田会もそのように連動して温度を高めていけるプレイヤーになれたらいいなと思っています。 今はメンター三田会を知っている起業家や起業を志す人達からのコンタクトからコミュニケーションが始まっていると思いますが、メンター三田会からスタートアップ側へ声かけができる未来もあるかと思っています。これからは、そうしたアプローチを増やして、メンター三田会とメンター三田会へのコンタクトを求める方々どちらからもアクセスしやすいようになると、よりメンター三田会の良さが出るようになるのではないかと思っています。 インタビュー担当:KBC17期 渡邊光祐 KBC18期 渥美空
- 東工大と慶應を繋ぎ世界を変えるスタートアップを生み出す
辻本将晴さん 東京工業大学環境・社会理工学院 イノベーション科学系・技術経営専門職学位課程 教授(系・課程主任) 研究・産学連携本部 副本部長(起業活動支援担当) イノベーションデザイン機構 機構長 Greater Tokyo Innovation Ecosystem (GTIE) プログラム代表 メンター三田会 会員 「面白いこと」に熱中した高校・大学時代 高校時代はかなり激しく、受験体制の高校の在り方に疑問を感じていました。私のいた高校では何十年か振りとなる生徒会を立ち上げて、生徒会長になって自分で仲間を集めていろいろ活動してみたりしました。今思えば、明確なビジョンが足りなかったのかもしれませんが、新しいことを毎日できて、それはそれで楽しかったと思います。 大学受験は一度浪人して、受験勉強に身が入らないため高卒で働こうかとも思っていました。しかし、予備校で受けていた小論文の授業が面白くて熱中しました。そこで親には申し訳ないことをしたのですが、小論文が科目にある学校ばかりを探して受けました。だいたい全て受かったのですが、その中でも当時SFCを作られた加藤寛教授の話を聞いて、面白そうだなと思いSFCに進みました。 大学では、やってみないとわからないから面白そうなものには全て出てみようとしました。結果的に、四つものゼミに通って、四つの卒業論文を書きました。全て面白かったのですが、中でも計量社会学が好きで、社会階層の移動障壁などの研究をしていました。しかし、当時お世話になっていた富永健一教授が定年でご退職されるとのことで、大学院に進学する際には経営戦略論と意思決定論の二つの研究室に参加しました。割と大変でしたが、面白いと感じたものは全てやってみようと思っていました。 教授・同級生から「ベンチャー」を学ぶ 修士では意思決定論の印南教授と経営戦略論の榊原教授の所に進みました。印南先生のところは意思決定とベンチャーの研究をする研究会で、岐阜県のソフトピアとベンチャーについて共同研究していました。また、榊原先生の方では、同級生の田中祐介くんの繋がりでSAPと共同研究をしていました。田中くんは電脳隊という会社を設立して売却した人です。そういうすごい人がいたので、当時から「ベンチャー経営者ってすごいなぁ」と思っていたのですが、自分はそこまで有能ではないなとも感じていました。 そこから、三和銀行系のシンクタンクを経て、より強い専門性を求めて博士に進みました。当時は田中くんに声をかけてもらって、田中くんが立ち上げたフラクタルコミュニケーションズという会社で働いていました。私がピュアな研究者ではないというところは、このようなバックグラウンドから来ているのかなとも思います。 エコシステムという概念を提起 博士課程では、お世話になった榊原先生に影響を受けて、イノベーション論を専門にしました。当時技術経営という分野ができていたので、東大の技術経営、芝浦工業大学の技術経営に移っていき、その後法政大学のビジネススクールで准教授を勤めました。 法政大学では、経営戦略論を担当していました。私の専門領域は経営戦略論の中のイノベーション論で、その中でもプラットフォームやエコシステムによるイノベーションに焦点を絞りました。絞った経緯としては、当時フランステレコムという会社がダーウィンというグローバルリサーチプロジェクトを実施していて、私も参加していたことがきっかけになっています。そこで、FeliCaという現在Suicaなどに導入されている技術規格があって、面白いなと思いフランステレコムに紹介したところ、予想以上に反響がありました。そのときにエコシステムという概念で研究して高い評価を受け、エコシステム、プラットフォーム領域に専門を絞りました。 エコシステム研究を進めて、それなりに引用される論文を書けるようになりました。そして、東工大のMOTに移籍してエコシステムの研究を進めていくうちに、エコシステム研究のレビュー論文で概念提起を行ったところ、その論文が世界全体の社会科学全体の中でトップ1%のサイテーションがなされるなど評価されています。 実は以前からアカデミックアントレプレナーについての研究も並行していました。エコシステムはそもそもスタートアップと大きな関わりがあるし、私も以前スタートアップに参加していたりして、もともとアントレプレナーに興味はありましたが、研究の中心には据えていませんでした。どちらかというと、技術セントリックな研究を中心にしていました。 GTIEで、学問と実務を横断 東工大イノベーションデザイン機構(IdP)とGTIEを立ち上げたきっかけは、いくつかあります。私が現在いる技術経営(MOT)は、東工大のビジネススクールのような場所で、東工大がスタートアップ支援に注力しようとしているところで、私が代表となって国プロに応募する、という流れになったのがきっかけのひとつです。そういう意味では、自分の興味と大学の方針が一致したとも言えるかもしれません。 自分が研究しているエコシステムを社会実装もしたいという気持ちがあったことも、GTIE立ち上げに取り組んだきっかけのひとつです。自分が今まで研究してきたことを、理論だけではなく実際の社会に組み入れたいと思っています。その意味ではGTIEは私にとっては、少し変わっていますが、スタートアップだと言えると思います。 また、一面ではGTIEは私の研究の一環とも言えます。”Transdisciplinary” という考え方があります。これは課題を解決するために学術と実務の世界を超越して、両方の知見を総動員するという研究スタイルです。MOTでは、社会人学生の皆さんの直面している現実の課題に対して、学術的な理論を組み合わせて解決を試みる、論理的に分析するというスキルを身につけることに意味があると考えています。GTIEも同様に課題を解決するために学術と実務の知識を総動員していると言えます。”Transdisciplinary”なアプローチで研究成果を出すのは難しいですが、何とか研究としても成果につなげていきたいと思っています。 世界を変える大学スタートアップを生み出す枠組みを作る GTIEのビジョンは「世界を変える大学発スタートアップを育てる」です。世界を変えるというとすごくグローバルで大きな話に聞こえると思うのですが、私が言っている「世界」というのは「自分にとっての世界」なので、「自分の地元で移動困難な方がいて、その方のために何かできないか」と思ってスタートアップを作ったり、「不登校」を何とかしようとしてNPOを作ったりする活動も、私にとっては「世界を変える」だと思います。要は志と野心ですね。 だから、ディープテックとかってよく言われるのですが、私の中ではそれだけではなくて、世界を変えようと考える意志を持っている方々全員が大事だと思っています。その中でも自分で何とかしちゃう人、結構そうではない人もいると思っていて、自分だけでは大変な人たちに共感して一緒に動く人たちもいるといいかなと。メンター三田会もそういう集まりだと思うんですけど、私の場合は大学を超えて、国境を超えて、地域を超えて世界を変えることにチャレンジする方々を助ける取り組みを行いたいと考えています。 その中だと、GTIEというのはまだ過程だと思っています。Greater Tokyoエリアで活動していますが、全国拠点が連携して動くともっといいし、更にはグローバルな接続でも動こうと思っています。結果的には、プレイヤーを中心に全体が繋がって巨大な「世界規模のメンター三田会のようなもの」ができればいいなと考えています。 GTIEは国のプロジェクトで2025年でプロジェクトとしては終わってしまいます。しかしプロジェクト内では私が社会に必要だと考える機能を提案しているため、皆さんが必要だと思ってくれたら維持したいなと思っています。必要とされた機能は自律運営的に機能させたいと思っています。 大学の内と外の架け橋に 新しく東工大イノベーションデザイン機構を作ったり、GTIEを立ち上げて運営したりして強く感じているのですが、僕はあまり実務能力がなくて、、(笑)メンター三田会の他の皆さんのように伴走支援するようなことはできないかもしれません。だから、それ以外に何ができるのかな、と考えた時、大学の中と外を繋ぐ、ということはできるかもしれないなと思いました。 東工大の一人として、東工大の中のテクノロジーとか先生と人を繋ぐこともできますし、GTIE経由でも繋げることができると思います。また、これから東工大の先生として新しいスクールを作ろう、新しいキャンパスを作ろうともしていて、そのようなつながり方でメンター三田会と関われたらなと思っています。 慶應義塾とメンター三田会には大きなポテンシャルがある メンター三田会は本当に素晴らしい方々がいらっしゃいますし、今行っている支援も素晴らしいなと思います。ただ、工夫の余地は残っていると思いますし、私が今やっていることとぜひリンクできればな、とも思っています。 慶應スタートアップも進んでいるなと感じています。ただ、あれだけ大きな大学なのに、まだキャンパス間の連携ができきっていないようにも思えます。慶應義塾はまだその大きなポテンシャルを活かしきれていないかもしれません。是非、東工大とも何か共同でできればとも思っています。 インタビュー担当:KBC17期 高須裕大 KBC18期 犬伏俊輔
- 自分自身がやりたいことを自覚しているか
久米雅人さん メンター三田会 会員 Beatrust株式会社 Co-Founder 経歴 慶應義塾大学法学部政治学科卒業。2006年に新卒で株式会社アサツーディ・ケイ(現ADKホールディングス)に入社し、2011年まで5年勤務した後退職。その後Google合同会社に入社。2020年まで勤務した後、現在はBeatrust株式会社立ち上げに至る。 深掘りをすることに集中した学生時代 大学時代は自分が楽しいと思ったことを深掘りすることに集中していました。この「深掘りをする」という経験は起業をする上でも役立ちました。 この仮説が合っているかはわからないのですが、人の経験や知識って縦軸のものと横軸のものがあると思います。 例えば、いろんなところに行っていろんな人との人脈を紡ぐのは自分自身の「横幅」を広げるにはすごく大事ですけど、それだけだと「知り合いが増えただけ」になってしまわないか、ということも思っていました。つまり、経験はいろいろしているのだけれど、「縦軸」=自分がそれをどういうことだと理解しているのか、を深掘りできていないことって、若い頃は結構あったと思っています。 僕の場合は「横軸」でなく「縦軸」の知識ばっかりな頭でっかちの方だったと思っていて、歴史的に残っている名作文学とかいい音楽とかと言われるものに関しては、かなり深掘って聞いていました。幅広くいろいろな人と交流したり、人脈を広げたりといったことは学生時代ほとんどしていなかったのですが、逆に自分ひとりでいろんなものに触れて、考える習慣があったことはその後の起業や社会に出た時にすごく役立ったなと思っています。 具体的に言うと、海外で仕事をした時に、ある国の同僚から社会問題について聞かれた時に自分で色々なことを深掘りして学んでいたことで国の歴史や社会情勢についての見解を自分なりの意見で答えることができるようになっていて「お、こいつは話せるな。」と思ってもらって、知り合って初期のコミュニケーションを取るのに役立ちました。 作曲から演奏、集客まで全て行ったバンド活動 大学時代は自分でバンドを組んでいました。バンドサークルに入らずに自分達で作曲して集客して演奏してたんですが、これってプチ経営者みたいだなと社会人になってみて思い返すことがあります。プロダクト(曲)を作ることもそうだしマーケティング(チラシ作成やチケット販売)とかもそうだし、出演費用(売上)の帳尻を合わせるみたいなことも、実はあれって起業と似ていたんだなと思っています。 一方で、当時は曲を作ることだけに集中していて、あんまりお客さんを呼ぶことを考えていなかったりとか、お客さんは呼んだのだけど単発で盛り上がって終わりみたいな感じで学びがあったなと思っています。 大学時代に、少人数のグループを作り上げて、自分達で創作活動をして、それを世に出すことでお金をもらうということをしていたのは、巡り巡って結構いい経験になったと思います。その時を振り返って反省していることは、「いいものを作っていればいつか誰かが気づいてくれる」と思っていたことで、それだけでは全然ダメなんだということに気づけました。あの時もっとやらなければいけなかったことは、自分達の曲のアピールを知らない人に向けてしたり、自分達の曲をもっとお客さんに聞いてもらうことだったと思います。 大学時代のライブでの1枚。Mr.Childrenも出演していた渋谷のLa・mamaというライブハウスでも演奏していました。 バント活動がアサツーディ・ケイ(現ADKホールディングス)との出会いにつながる 創作活動とかアートが学生時代に好きだったのですが、できれば自分の感性やコミュニケーションが活きるような業界なり会社がいいと思っていました。 当時全然知識がなかったのですが、いろんな業界を見る中で、広告会社という、プロモーションを通してものを売れるようにしていく仕事に魅力を感じました。クリエイティビティーとの掛け合わせで「広告」というものを創り上げていく点が、自分がやっていた創作活動に通づると思ったからです。そのような経緯もあってアサツーディ・ケイへの入社につながりました。 アサツーディ・ケイでの仕事 いろいろな雑誌の広告を、顧客から受注して雑誌に掲載することをしていました。毎日のように出版社に行って、広告掲載の交渉をしたりとか、あとは雑誌というメディアを使ってイベントと掛け合わせたりデジタルと掛け合わせたりして、お客さんと「こういうことをしませんか?」という交渉をしたりしていました。 大学時代に本をたくさん読んでいて、出版社の方も本好きが多かったのでかなり会話も盛り上がって、出版社の方に可愛がってもらったりしました。 5年間はそういう雑誌の仕事をして、そのあとは雑誌広告の花形である、化粧品やファッションブランドの広告営業チームに配属になりました。基本的に広告会社では営業の方がお客さんから広告の依頼と予算についての話を受けた後に、広告の打ち出し方を提案するために、雑誌の場合であれば出版社を担当している広告会社社員が出版社と交渉しに行く仕組みになっています。それを私が所属したチームでは、雑誌に詳しい人が営業もやった方が効率的だということで、もともと出版社担当であった私が営業も兼ねるチームを組成しました。 時代の流れに後押しされ、転職活動へ 一方で、当時(2009年から2010年)は、iPhoneがでて、若い人でもスマホで大きく起業で成功できるエコシステムがだんだん出来上がっていました。僕の周りも、結構スマホを活用したビジネスで起業する人が増えていて、僕自身も音楽好きなのもあってインターネットの破壊的なところが非常に面白いなって思っていたんです。 また、アサツーディ・ケイではたくさんいい経験をさせてもらったこともあり、新しいライフスタイルを模索するようになりました。それに加えて当時プライベートで大きな変化もあり「やりたいことをやらずに我慢して仕事をしていく、というのは自分も不幸になるし、周りも不幸になってしまう」と思ったんです。そんなこともあり、忙しい合間を縫って転職活動を始めました。 広告代理店で通信会社のイベントの仕事 前職の経験が活きたGoogle入社 Googleに入れたのはすごくラッキーだなと思っていて、僕一度Googleの面接に落ちているんですよ。「お祈りメール」もきていたんですけど、面接官との相性もあるし、他にもポジションはあったから、もう一回受けさせてくれってお願いしました。 改めて面接の機会をいただいたのですが、そこではアサツーディ・ケイで経験したことがすごく生きたんです。当時のGoogleは、広告の売上がほとんどの会社だったのですが、中小企業向けのデジタル広告がメインでした。しかし、日本でも徐々に大手企業もデジタル広告をやるようになってきて、Googleとしてもそこを開拓していこうとなった時に、社内にいわゆるマスメディアと言われる新聞、ラジオ、テレビなどの広告に携わったことがある人が多くなく、僕みたいにそれを経験したことがあって、かつ、デジタルに興味がある人がGoogleとしては割とフィットしたんです。そうして色々転じて、入社できたというのが経緯ですね。 ニューヨーク出張でブルックリン橋とマンハッタンを背景に。 視野が広がったGoogle時代、そして起業へ Googleでは15カ国以上に出張とかをさせてもらって、日本に住みたいフランス人、コミュニケーション力がすごく高い韓国人、デザイン会社の社長を辞めて会社員になったブラジル人など、色んな人に出会えました。Googleでの経験はとても刺激的で、すごく楽しかったです。 ただ、このような恵まれた環境にいて、「自分がいる環境によって、発揮できる能力も変わるはずなのに、恵まれた環境にいてすら、やる気がなかったり、チャレンジをせずに自分ではうまくいかないとか思ってしまっているケースって世の中にたくさんあるのではないか」と考えたのです。 自分は、転職をしてみたことで「あ、意外とこんなふうに人生って変わるんだ。」と思えたけれども、僕が当時感じたことと同じことを感じている人たちが、他にもたくさんいるのではないかと考えました。ただ、Googleにいつづけていても、そうした環境自体を変えることは難しいなと思いました。だからこそ、自分が感じたこと・こうなったらいいのにな、と思うことをビジネスとして形にできないかな、と思ったのが起業の経緯ですね。 若い年齢で起業していた人たちも周りにたくさんいたんですけど、僕が起業に踏み切れなかった理由は、思いはあったけれども「じゃあ実際に何をやる?」となった時に、どういうビジネスをするべきかが決められなくて、それがなければ起業するべきではないのではないか、と思っていたからでした。起業というのはあくまでも一つの手段で、会社に残ってやる、副業としてやる、ボランティアとしてやる、などいろんな選択肢がある中で「今やりたいことを実現するときに、自分が一番うまく自由にやれる、早くやれる手段」が起業だったのです。 起業の当初の試行錯誤 当時はもちろんビジネスアイディアは決まっておらず、2018年ごろから試行錯誤していました。その時ブロックチェーンのアイディアを色々試してみたんですが、商用で使うにはまだ早いと判断し、とにかくその後さまざまなアイディアを考え、スライドにまとめるということを繰り返していました。 そして最終的に「やりたいこと」として出てきたのが、どんな会社にいても、どんな業種の人でも、自分がやりたいと思ったことをやれたり、自分がその場所で頑張ったら評価を受けられるような「仕組みづくり」でした。 大企業の中にいても100%の自分を表現できていない人、恵まれてる環境だけど力が発揮できていない人などを可視化するソリューションを作ったらいいのではないかと思ったのが始まりです。半年から1年くらいかけて今のアイディアに行き着きました。それが Beatrust の人材情報を可視化して協業・共創を活性化する、多様化したチームのためのプラットフォームです。 起業してからの心境の変化 起業当初は、大企業をやめていきなり起業するということに、恐怖を感じていました。失敗することに対する恥ずかしさもあり、周りに助けてもらう事へのためらいなどが残っていたのだと思います。 今となっては、起業してみてむしろ逆のイメージが生まれました。起業当初は「何もない」からこそ周りからの認知が大切であるし、伝え方一つで大きくイメージも変わります。成功するためには、方向性を間違えないようにしながら、どんな手段でも泥臭くトライし続けることが重要だと実感するようになりました。 「キラキラしていて簡単にみんなうまくいってそうに見えているなもの」だった起業のイメージも、いざ自分がやってみることで、限られた時間で仲間やお金を集める大変さや、既に起業してている人への本当の意味でのリスペクトが生まれました。 今はやっと、自分の実現したいことの素地が揃ったと考えています。今後はそれを実現させるために、これまでと変わらず軸をブラさずやっていきたいと思っています 。 メンター三田会は常に教え合いが起きている場所 メンター三田会はコミュニティとしてとても魅力的な場所だと思っています。 最近、忙しい中でもボランティアの活動をしていて、地域のコミュニティに貢献するということをしています。何故忙しい中でそんなことをやっているのか、と聞かれることもあるのですが、実はとてもメリットがあって、自分が普段所属していないコミュニティに行くと、自分が知らないことを知っている人がいるんです。 メンター三田会の中には、例えば起業に関してはたくさんの先輩方がいらっしゃいます。みなさん優しく見守ってくれてるし、学ぶことがとても多いです。 どうしても自分が知っているコミュニティだけに行くと、そのコミュニティの中で学べる限界があります。たまにメンター三田会のような場所に行くと、新しい人がいて、新しい事業に出会え、自分自身の刺激につながります。このような利害関係なく教え合える場所があることの重要性は、社会人になってから気づきました。何歳になっても学ぶことを忘れないために、いろいろなコミュニティに所属しておくことが大切だと思っています。 自分自身がやりたいことを自覚しているか 起業に関わらず、「私は今、”なぜ”これをやっているのか」という問いに対して、抽象的でもいいから自分なりの回答が言えることが大事だと思っています。自分が「なにをやっているか」を答えられる人はいても、「なぜ」それをしてるんですかと問われたら、答えられる人は少ないです。自分の興味関心のためでも、家族のためでも、どんな理由でも、自分がなんのためにそれをやっているのかを言えることは、人生の幸せ度を上げる重要なことだと思っています。学生でも社会人でも起業してても、どんな人に対しても言えることではないでしょうか。 私自身、アサツーディ・ケイにいた時より、Googleにいた時より、今の方がそれが言える自信があります。正しいかどうかは関係なく、何をしたいか不細工な答えでも言える自覚を持っていることが大切だと思っています。 最近著名な写真家の方にチームメンバー全員の写真を撮影してもらいました。 インタビュー担当:KBC17期 渡邊光祐 高須裕大 KBC18期 犬伏俊輔
- 慶應スタートアップエコシステム形成の一翼を担いたい
~慶應での出会いが私の人生を良き方へ変えてくれたから~ 芦澤美智子さん 横浜市立大学国際商学部 准教授 メンター三田会 学術会員 経歴 慶應義塾大学卒業(経済学学士、経営学修士、経営学博士) KPMGグループで公認会計士として会計監査、M&A財務監査等に従事 慶應ビジネススクールにてMBA取得 産業再生機構、アドバンテッジパートナーズにて企業変革に関わる 現在、横浜市立大学国際商学部准教授、慶應義塾大学大学院経営管理研究科非常勤講師を務める これまでに上場企業3社およびスタートアップの社外役員、国や横浜市の各種委員も務める 女子校で身についたリーダーシップ 雙葉学園という女子校に通っていました。女子校には女子校のよさがあって、文化祭や体育祭などの行事のリーダーはすべて女子です。「女子でもリーダーシップを取れる」との感覚は中高で身につきました。大学は慶應義塾大学経済学部に進学しましたが、一転して女子はマイノリティでした。私も雰囲気に飲まれてリーダーではなくサポート側に回っていたのですが、「なんか違うな、もっとできるよなぁ」という違和感はありました。 ゼミで「社会のリーダーになる」ことを考えるようになった 振り返ってみると、慶應は私に、人生を変えるほどの大きな影響を与えてくれました。特にゼミでの経験が、今の私の土台になっています。 私が所属していたのは島田晴雄先生(労働経済学)のゼミでした。島田先生はとても熱い先生でした。「慶應に来たということは、世界を作るリーダーになれる、いやリーダーになる責務があるんだよ」と語るのです。私にとっては、島田先生の言葉や与えてくださる機会の一つ一つがとても新鮮で、一気に世界が広がった感覚がありました。そしてこの時から「自分が社会のリーダーになる」ことを考えるようになりました。 同期や先輩後輩とはグローバルな視点で政治経済について語り合う日々でした。ゼミ生の家に泊まりこんで湾岸戦争について議論したり。理論について学ぶのはもちろんですが、島田先生は「いま」の生きた学問を扱っていて、学生と真剣勝負で対峙してくださいました。「学問は面白い」「学問は役に立つ」さらには「学ぶとはよく生きることそのもの」という気持ちはこの時に芽生え、今の研究者キャリアの土台となっています。 最近、周りの人から「芦澤さんはどうしてそんなに慶應のことが好きなの?」とよく聞かれます。その答えは明確で「慶應によって私の人生がより良いものに変わったから」です。慶應での日々に心から感謝しています。 資本主義社会で生きる力を身につけたKPMG時代 ファーストキャリアで選んだKPMGには約5年いたのですが、入社をして3つの良かった点があります。 1つめは、グローバル企業におけるリーダー経験を早いうちに積めたことです。KPMGはグローバルな会計事務所なので、海外大企業の日本支社などがクライアントに多くありました。また2年目から現場リーダーの立場で仕事ができました。社会人として「自分で何とかする」という姿勢が身についたのは大きかったです。 2つめは、資本主義社会における基礎力が身についたことです。会計監査は、会社にとっての健康診断のようなもの。数字を読んで、会社の経営状態を理解するという力が若いうちに身についたのはものすごくよかったですね。 3つめは、「主体性をもってキャリアを積み重ねる」という感覚がつかめたことです。この事務所は転職する人が多く、キャリアには多様な積み重ね方があること、それは自分の主体的な選択によって決まるものだとの感覚が身に付きました。 これらが後の、ファンドでの企業変革マネジャーや大学教員というキャリアに繋がっていると思います。 ビジネスの最前線を学ぶため、KBS(慶應ビジネススクール)へ KPMGを辞めた最大の理由は、やってみたら数字が好きじゃないと気づいたことでした(笑)。会計士というのは、会社の「結果」としての数字が合っているかをチェックする仕事です。「自分が活動の主体として何かを変えていきたい」と思う私には、会計士の仕事が徐々にエキサイティングに感じられなくなっていきました。「自分自身が最前線で価値を生みたい」と思うようになったのです。それで次のキャリアに進むため、2001年にKBS(慶應ビジネススクール)に入学しました。 産業再生機構やアドバンテッジパートナーズで起業家精神を養う 産業再生機構は、私がKBSを卒業するころに新聞の1面を毎日飾るくらい話題になっていた会社でした。「自分自身が最前線で価値を生みたい」という思う中で、ご縁があり入社することになりました。 産業再生機構での経験は強烈なものでした。ここでの経験もまた人生を変えたと思っています。特に、今の活動のネットワークの根幹になっているのが、この時に同じ釜の飯を食った仲間たちです。 産業再生機構には、当時のトップエリートが集まっていて、しかも皆「この国を変えよう。自分たちなら変えられる」と思っていました。あの圧倒的な主体性は身を置いてみないとわからなかったと思いますね。 新しい世界を切り開く。そのために主体的にリスクを取りに行く。勝負したら絶対負けない覚悟を決める。「今ある課題を今解決しないといけない」と思って行動している。今振り返ると、自分のアントレプレナーシップ(起業家精神)の根幹は、あの時に仲間と研鑽しあったことで醸成されたのだと思います。 産業再生機構が解散したのちに入社したアドバンテッジパートナーズでも「自分たちで社会課題を解決する」という起業家精神が養われました。 海外MBAから帰国した友人達の影響でスタートアップに注目する スタートアップに注目したきっかけは、産業再生機構やアドバンテッジパートナーズの仲間が、海外MBAから帰ってきたら「欧米のトップエリートは起業を目指している。起業家こそ社会変革をリードする最もカッコいい職業なんだよね」と言うのです。「おそらくスタートアップが世界的に大きなうねりになるのだろう」と感じ興味を持ちました。 出産を機に退職、自身への投資としてKBSに戻る 35歳の頃、母から「子供はいつ生むの?」と言われ、ふと我に返りました。それまで仕事のことしか考えていなかったので、子供のことはすっかり忘れていて(笑)。それで36歳の時に出産し退職しました。その後2年間専業主婦をやったんですが、まあ私には専業主婦は合わない合わない(笑) そんなある時、夫が突然「みっちゃん(私のこと)、申し訳ないけど最近話が面白くない」と言い出しまして。もう大激怒ですよ!!こっちはキャリアを捨てて一日中赤ん坊の世話をしてるのに、面白くないとは何事か!と。でも冷静に考えてみると「今の私は確かに私らしくないな」と気づいたんです。 そこで何とかしてキャリアに戻ろうと思いました。そんな時、KBSの先生にお会いし事情を話したところ「じゃあ大学に戻ってきたらどうか」と言っていただきました。「そんな道があったのか!」と気づき、子供が1歳の時に慶應の博士課程に戻りました。 私にとっては学ぶことは「投資」なんですね。会計士の勉強や、ビジネススクールや留学で、勉強への投資は必ずリターンが出せるとの自信がついていました。だから、博士課程への進学も「これは投資。後で必ずリターンを出そう」そう思っていました。 また、私自身が慶應義塾大学で良い師に会い、良い影響を受けていたというのもあり、その恩返しとして大学を働く場所にするのはよいと感じました。1歳児を抱えての大学に戻った背景にはそんな考えもありました。 横浜の学生起業家サークル「YOXO(よくぞ)カレッジ起業部」の顧問をしています(慶應の学生起業家も支援しています) スタートアップエコシステムをどう実装するか 現在私は、スタートアップが生まれる循環、エコシステムを、日本にどう実装していくかに関心があり、研究を続けています。 スタートアップエコシステムという概念は世界的にも注目されています。これを日本でどう実現するか。そこでは「産学官連携」が必須になってきます。私の考える「研究」とは、パソコンの前で論文を読みデータを分析するだけでなく、社会実装までを含んでいます。私自身は民間経験も長いし、実務界でトップレベルのネットワークを築いているので、産学官連携を「私がリードして実装する」という主体性は、他の研究者よりも強いと思います。 残りのキャリアを通じて社会にインパクトを与えたいですね。やるべきこと/できることをやって次世代につなげたいです。島田先生の教えである「社会のリーダーとしての責務」という意味もありますが、今はそうやって社会変革の最前線に立つことがエキサイティングだと思えます。 「自分の人生がこんな楽しいものになると思ってなかった」と感謝しながら、今後も社会にインパクトも与える研究者人生を歩みたいです。 2022年秋から1年間、スタンフォード大学に客員研究員として在籍します。日本では2013年頃から第4次ベンチャーブームがおこり、特に東京スタートアップエコシステムはかなり成長してきています。Startup Genome と Global Entrepreneurship Network (GEN)が発表した「Global Startup Ecosystem Report 2022年版」では、東京は12位までランキングをあげています。さらにここから先は、世界各都市のスタートアップエコシステムとの連携が成長の鍵を握ると考えています。世界に活動範囲を広げられたら、資金も市場も格段に大きくなります。スタンフォード大学を中心とする、シリコンバレーのエコシステムをつぶさに研究し、いずれ東京との架け橋の一端を担いたいと思っています。 シリコンバレーと東京を繋ぐネットワーク 女性のリーダーを増やしたい また、「ダイバーシティ・イノベーション」という概念にも注目をしています。多様性、その中でも特にマイノリティの視点を取り入れることで、イノベーションが加速するという考え方です。日本でも女性の社会経済参画が増えるとイノベーションが進むはずです。私自身が社会経済参画の最前線に立つことを意識しています。リーダーとして切り開いていく、そしてそれが楽しいことだと発信すれば、次世代女性の参画が増えるでしょうから。 メンター三田会には起業家を生み出すネットワーク構築と文化醸成を担って欲しい メンター三田会はポテンシャルが高いと感じています。 「慶應だから、三田会だからできる」ものがあると思います。慶應出身の経済・社会のリーダーは多く、慶應出身者が日本社会を先導しています。場合によっては世界をも先導している。また慶應出身者はただ数多くいるだけでなく、「慶應」への帰属意識がありますよね。福澤先生の教えがその支柱になっていることも大きいです。「社会実装してこそ学問」という実学の教え、産学連携の土台となる「半学半教」の精神が今でも共有されています。起業家を輩出する・支援する文化が醸成しやすいと考えています。 しかしながら慶應には未だ、起業家を連続的に輩出する、支援するエコシステムができているとは言い難い状況です。スタートアップエコシステム形成に必要な要素は3つあり、それは「制度の整備」「ネットワーク構築」そして「起業文化形成」です。メンター三田会は、起業家を支援する「ネットワーク構築」と、起業を前向きにとらえる「起業文化形成」を主導できるポテンシャルがあると思っています。 また、第3次、4次ベンチャーブームの中で成功した起業家が慶應にはたくさんいます。次なる起業は、Web3.0の分野だったり、大学発ベンチャー(ディープテック系)が中心だと言われています。慶應にはそういった分野で活躍しそうな優秀な研究者や学生がたくさんいます。また、産業界で様々活躍する大企業の人や、弁護士や会計士等のプロフェッショナルもたくさんいます。 先輩起業家/支援者と起業家予備軍が繋がり、互いに刺激し感化し合う、そういう環境があるといいですよね。メンター三田会には、そんなコミュニティになることを期待しています。そして私も「慶應にスタートアップエコシステムを作る一翼を担いたい」。慶應での出会いと気づきが私の人生を良き方へ変えてくれましたから、恩返しとして、慶應の発展に貢献したいと思います。 10代のアントレ教育プログラムを立ち上げました
- 自分のワクワクすることに忠実に
前刀禎明さん 株式会社リアルディア 代表取締役社長 メンター三田会 幹事 経歴 ソニー、ベイン・アンド・カンパニー、ウォルト・ディズニー、AOLを経て、ライブドアを創業。スティーブ・ジョブズ氏から日本市場を託され、アップル米国本社副社長 兼 日本法人代表取締役に就任。独自のマーケティングでiPodを大ヒットに導き、危機的であったアップルを復活させた。現在は、ラーニング・プラットフォーム開発やセルフ・イノベーション事業などを手がけている。AI inside株式会社 取締役CMO、mui Lab株式会社 エグゼクティブ・アドバイザー、株式会社MGNET クリエイティブ・アドバイザー。 著書は『僕は、だれの真似もしない』(アスコム)、『学び続ける知性 ワンダーラーニングでいこう』(日経BP)など。 より詳細なプロフィールは こちら からご確認いただけます。 「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」のポリシー 学生時代は、勉強はあまり好きではなくて成績も悪かったですね(笑)。中高一貫校に通っていて、いわゆる進学校だったんですが、あまり真面目に勉強していませんでした。特に文系科目は暗記が多くて、好きじゃなかった。 歴史は、ストーリーには興味があったんですが、単純な年号の暗記はいいやってなっちゃったんだよね。そのせいもあり古文漢文も嫌いでした。それでも、漢文の1フレーズだけは印象深くて覚えていて、いまでもポリシーにしています。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」。ツバメや雀の小さな鳥は鴻鵠などの大きな鳥の気持ちは分からないよ、と思っていると気持ちに余裕が出るというか、大きな気持ちでいられるんだよね。 先生には従わず、自分を貫いた高校時代 高校で理系を選んだんだけど、選抜クラスには選ばれないまま受験に臨みましたね。 高1の時から模試を受けていて、志望校はいつも東工大・早稲田・慶應って書いてたけど全部E判定だったんだよね(笑)。高3までずっとそんな感じ。でも、高1から高2の春休み、高2から高3の春休みの模試の成績はなぜか良くて、「3度目の正直で受かるかも、運も実力のうち」って思ってた(笑)。 合格率を気にする進学校だったから、先生たちが実力相応な大学を受けさせようとしたんだよね。父親が同席した三者会談の日、先生の第一声が「前刀、寝ぼけてちゃダメだぞ」。僕の返事は「はい、起きてます!」。先生もあきれちゃってた(笑)。 先生には、名古屋工業大学の夜間や偏差値が低い私立大学を勧められたんだけど、頑なに拒否して、すべり止め受験の勧めもはねのけて受験しました。そしたらたまたま慶應だけは受かったんだよね。 先生たちも手のひら返しの態度をとり、「名古屋工業大学(夜間じゃなくて)も受けてほしい」と言われましたが、合格率アップには協力しないで慶應に入学しました。 自分でゼロから始めた研究で進む 理工学部では単位を取るのが大変でした。3年生に上がるとき、留年確定しそうだった。ところが3科目は落としたんだけど、進級条件だけはうまくパスできたんです。 3年生になるときに専攻を決めて、管理工学科に行きました。ビジネススクールみたいな感じです。というのも、日吉にいる間、「これからはコンピューターの時代だ!」と思い、KCS(慶應コンピュータソサエティ)に入ってたんだけど、プログラミングには興味をもてなかった。目の付け所は良かったんですが、純粋にテクニカルなエンジニアではなく、経営戦略のほうに興味がわいてしまって。それで管理工学科に行きました。 研究室では、だいたい先輩の研究を引き継いで卒業論文を書くんだよね。だけど、僕はそうじゃなくてゼロから自分の研究を始めました。アメリカの自動車市場のポートフォリオアナリシスを行い、企業の競争動向を予測して、卒論は通りました。 進路は大学院を目指したんだけど、成績が悪くて推薦では行けなかった。受験組の勉強会も行ってなくて、周りからは「前刀は諦めたね」って言われてたんだよ。それでも、自分では何となく受かる気がしていたんだよね(笑)。結局合格したけど、大学院に入っても成績はパッとせずでしたね…。 「競争率は関係ない。偉くなるやつは偉くなる」 大学院のあとは就職を考えてたんですが、理系では学校推薦で就職できるから、そこを狙ったんです。当時ソニーがすごく人気で、管理工学科には学士3枠と修士には2枠で計5枠があったんだけど、修士2枠に20人以上応募があった。僕もそのうちの1人でした。 先生との1対1面談と、成績で決まるものだった。全員が「成績で判断されるなら、前刀は無理、残念だね(笑)」って言ったので、僕は「最後まで分からないだろ?」と言い返しました。 先生は「ソニーだと選りすぐりの優秀な学生が集まるから、出世しにくいぞ」と話し、応募者を他の企業に誘導していました。大半の学生は「そうですね」とソニーを諦めていました。 でも僕は、「競争率は100倍だろうが1000倍だろうが、偉くなるやつは偉くなります」って。先生は「それはそうだけど」って…。そしたら結果、推薦をもらえた。しかも、学士1人の枠を食って、修士3枠目。他二人は成績優秀だったから、僕は面談での発言が良かったんだろうね。 独自のテーマと研究姿勢が高評価 学校推薦でソニーに行けるのが決まったのはいいんだけど、修士論文を認めてもらわないと修了できない。 修士論文は、自分の研究室の先生じゃない先生に発表して評価をもらうんですが、こともあろうか一番厳しい先生に当たっちゃった。教授が発表準備に付き合ってくれてたんですが、前日の夜に「俺は帰るぞ、明日はぶっつけ本番で頑張れ」と言われてしまいました。それでも少しでも印象を良くしようと、質問を予想して、用意していたんです。 発表本番、予想していた質問が来た。だけど、その時、プレゼン資料をばらまいてしまい、「もう時間ないからいいよ」と言われ、答えることもできなかった。 発表はこんな感じでボロボロだったんだけど、「前刀、通ったよ。なんでかわからないけど」って先生から言われたんですよ。「テーマが良かったんですよ」って先生に言いました。 修士論文でも、先輩の研究を引き継いでテーマにするのが慣例でしたが、僕は今回も独自のテーマで研究。半導体の市場動向と価格変動を見ながら、どのように生産ラインをミックスすればよいのかを決める戦略的設備投資計画モデルを作った。 当時はパンチカードっていう紙に穴をあける方法で行うプログラミングが主流でしたが、発売されたばかりの16ビットパソコンを使い、プログラミング言語BASICでモデルを作り、実際の沖電気のデータを使ってシミュレーションしたんです。そのオリジナリティが評価されたんだろうね。 何年かして矢上キャンパスを訪れたら、なんと僕のレジュメがお手本として貼ってありました(笑)。シンプルにまとめるのは上手くて、認められてたんだと後になって分かりました。 発表は無事に終わったのですが、論文を締め切りまでに提出するのも大変で(笑)。エレベーターを待っていたら間に合わなくて、管理工学科があった6階から階段を駆け下りました。別棟の図書館から走ってきて、ガラスの扉に激突した人もいました。そんな熾烈な争いを繰り広げながら、なんとか期限内に提出し、修士課程を無事修了できました。 フラットな関係の自由闊達なソニー ソニー入社時に営業職を希望たら、「理系で院まで行って営業希望とは珍しいね」と人事には言われました。「メーカーは製造して販売するところ、僕は機械や電気のエンジニアではないから市場に近い営業を希望」と説明しました。 希望は通ったんですが、配属先は放送局などにプロ用のビデオ機器の海外営業部門で厚木勤務。「なんでソニーに入社して品川じゃないんだ、厚木なんて」とガッカリしてました。 ソニーって、肩書きで呼ばないんですよ。「○○部長」ではなく、「○○さん」って呼ぶ。素敵だなぁと思いました。年齢や肩書きなど関係なく付き合うという感覚はそこで作られました。 実はこれ、社長だった創業者の盛田さんが入社式で話してくれたことだったんですよ。 苦手な英語での交渉にチャレンジし、道が開けたソニー時代 アップルでスティーブ・ジョブズと働いていたって言うと、僕はすごく英語を話せるように思われるけど、もともと英語は苦手だったんですよ。 ソニーは英語研修の制度が整っていて、本当にお世話になりました。1ヶ月英語漬けになる特別プログラムがあって、主に海外赴任するエンジニア向けだったんだけど、海外営業の自分も受けさせてもらってました。しかも2回も。全くの異例でした。将来期待されてたんだと思います、転職しなければ冗談抜きに社長やっていたと思うなあ。 当時、円高の影響で本社の収益が下がっていたんです。海外支社との取引は外貨建てだったので、為替差損をカバーするためには値上げが必要でした。その交渉のためにソニーオーストラリアに行くことになりました。それまで海外に行ったことがなかった僕が一人で海外出張。英語は依然として苦手だったけど、グラフの見せ方やプレゼンが上手くいって、何とか価格改定に成功しました。 その成果が、普段なかなか褒めない本部長に認められて、直属の上司だった課長も驚いていました。その後、新設された事業開発本部の立ち上げメンバーに抜擢されました。新規事業ですからやりがいがありましたね。ですが、役員同士の争いで本部は解体されてしまい、僕は映像通信ビジネスの事業本部に異動となり、厚木に戻りました。 88年ソウルオリンピックのとき、朝日新聞社に写真を電話回線で送るシステムを貸し出しました。それまでは、撮ったフィルムを飛行機で持ち帰っていたので、新聞に写真が載るのは早くて翌日でした。しかし、朝日新聞はそのシステムを使って、陸上競技 男子100m決勝の写真をその日の夕刊に載せたんですよ。画期的でした。 ソニーには海外のビジネススクールへ留学できる制度もありました。MBAに興味があったので留学したかったけど、英語も数学の勉強も苦手だったから社内で選ばれるレベルではなかったんです。その時、同期の友人に「前刀はビジネススクールで学ぶよりも実践のほうが向いてると思うよ」と言われたんです。後から振り返ると、本当にそうだったなと思います。 その言葉は、ベイン・アンド・カンパニーへの転職を考えるきっかけになりました。辞める決断をして、人事と面談したときに「もったいないよ」「投資損だ」と言われても、「自分を厳しい環境に置きたいんです」「必ず恩返しします」と言い、転職に踏み切りました。 なのに、「Goodbye MD」と銘打ってiPodを売り出し、ソニーを敵に回すんですけどね(笑) 思考トレーニングとなり自分の志向を確信した―ベイン 上司はアメリカ人だし、英語でのコミュニケーションに加え、ロジカルシンキングなど慣れないことばかりで苦労しました。すべての資料にメッセージがないといけないのですが、資料を提出しても「so what?」と詰められ、黙っていると「come on!」とまた詰められる。スライドを作っても「頭使っているのか」と怒られたりしてました。今だとモラハラかも(笑)。ベインでは常識だった、ロジックツリ―を使うことやMECE(漏れなくだぶりなく)も知らなかったので苦労したなあ。 でも、ベインに行って、思考のトレーニングができたことはよかったなと思います。 このコンサル経験を経て、自分は人のことをとやかく言うよりは、自分のことをやるほうが情熱をかけられるなと、あらためて認識しました。 強気の姿勢でディズニーを成功に導く ベインを紹介してくれた方のお誘いで、ディズニーの新規事業に参画することになりました。まずはディズニーの通販カタログ事業の立ち上げです。 当時ディズニーストアがなかったから、ディズニーグッズを買おうとするとディズニーランドに行くしかなかった。ディズニーストアを拡大すると同時に、さらにお客さんが楽しめるようにということで通販をやることになりました。単独で通販事業を立ち上げようとすると、物流センターへの投資など大変なので、大阪の千趣会と組みました。 ディズニーグッズはメーカーからディズニーにロイヤリティが支払われます。だから商品が売れるだけでもいいのですが、カタログ販売する千趣会からもロイヤリティを取ろうとしました。「ディズニーの二重取りじゃないですか」と千趣会から言われ、交渉は長引き7か月かかりました。「ディズニーの価値を使うことで新しい事業を立ち上げられますよね、そこにロイヤリティが発生するんです」と説得し、なんとか通販カタログの販売に踏み切ります。 カタログ創刊時の発行部数は100万部、通販では購買率2〜3%で大成功のところ、なんと20%越えの驚異的な大成功を収めました。 もう一つはCD-ROM事業。ディズニーインタラクティブというブランドで、一気にシェアを獲得するために、CD-ROMとPCのバンドリング、つまりセットにして販売しました。当時パソコン市場の50%以上を占めていたNECをパートナーとして交渉しました。 CD-ROMをつけると1台につき100円のロイヤリティが平均的だったのですが、ディズニーは2枚で1000円のロイヤリティをもらおうとしました。コンテンツメーカーよりPCメーカーが強い立場でしたが、強気で交渉し、なんとか合意に至りました。米国本社の法務担当と通訳も一緒に22時間連続で交渉した日もありました。 NECのパソコンにつけたのはミッキーマウスではなく、くまのプーさんとライオンキングのCD-ROM。 ライオンキングを使ったテレビCMも好評で、結果的に大ヒットしました。ウケたのは、子どもが主人公のシンバの動きに合わせて「ライオンキング」って英語っぽく叫んで嬉しそうにするシーン。ディズニーのNo.1戦略に乗っ取って、強気の交渉をしてよかったですね。 社長として大切なことを学んだライブドア ライブドアの創業についてですが、VCに出資してもらっていたので、自分たちの発言力がそこまで強くありませんでした。無料プロバイダとして起業して、新しい時代を拓くライフスタイルブランドを創りたかった。インターネット利用のためのダイヤルアップ接続で発生したトラフィックによる料金からキックバックをもらうユニークなビジネスモデル。ですが、最大のパートナーだったワールドコムが破綻した影響で、ライブドアも経営が悪化し、民事再生と営業譲渡をすることになってしまいました。ちなみにワールドコムの経営破綻は、リーマン・ブラザーズに抜かれるまでアメリカ史上最大でした。 こんなこともありました。ある日突然、社長から会長に棚上げされて、アメリカ人が社長に就きました。まさにスティーブ・ジョブズがアップルを追い出されたときのような状況でした。半端なく悔しかったね。 新社長は売上が伸びないにもかかわらず、社員をどんどん増やしてしまった。このままでは会社が危機的な状況になると考えて、自分が社長の座に戻り、経営を立て直すとVCに直訴しました。社員一人ひとりと面談して事情を説明して納得してもらい、合意のもと半数の社員に退職してもらいました。 そして立て直しに着手した矢先、今度はパートナーが突然の経営破綻。そして民事再生を余儀なくされました。民事再生手続を進めながら社員の転職活動をサポート。無事全員が新しい仕事に就くことができました。最後まできっちり面倒を見きれてよかったです。 ライブドアの経験から学んだことは資本政策と不測の事態への対応。自分のやりたいことがあるならば、発言力を持つまで外部からはお金は入れない。さらに、どんな状況になろうとも会社を存続させられるように備える。経営者として本当に大切なことを学びました。 自分のやり方でアップルを復活させる ライブドアを譲渡した当時、アップルの日本の状況はあまりいいものではなかったんだよね。みんなWindowsに流れている状況だった。Macはクリエイターに人気だったけど、クリエイターでさえWindowsに流れていました。アップルストア銀座店がオープンしたんだけど、人もあまり来ない状況。どんどん苦しくなっていきました。 アップルは、この危機的な状況を打破する責任者を探していたんです。たまたま知り合いがアップル社内のヘッドハンターに紹介したようで、もともとはあまり興味はありませんでしたが、話だけ聞こうと思いました。 というのも、ベインで働いていた時に、初めて買ったパソコンがMacintosh SEだったんです。なんと60万円、でもメモリは2MB。当時から大好きだったアップルが日本を撤退してしまうのはさみしいなぁと思ったんだよね。社内ヘッドハンターと話して、面接を受けることにしました。 オンラインとリアルで何人かの役員と面接したあとに、日本に来ていたティム・クックと話しました。他の役員にも気に入ってもらえ、スティーブ・ジョブズと面接することに。日本の現状などを議論したのち、「好きなようにやらせてね」とも伝えました。 面接が終わった時、「生のスティーブに会えることなんて2度とないかもしれない」そう思ってスティーブに写真をお願いしたんです。が、「アップルに入ったら撮らせてやる」ときっぱり断られた(笑)。とはいえスティーブには気に入ってもらえたようで、その直後に人事責任者に採用の旨を伝えていたそうです。 そうして入社した後、アップルストア総責任者のロン・ジョンソンとミーティングがあったんです。しかし、約束の時間になっても先客がなかなか出てこない。誰かと思って覗いたら、スティーブだった。さすがに時間だから交代してとは言えずに立って待っていたら、スティーブが入ってこいと呼んでくれて、3人で話すことになりました。 ロンは「アップルストアで売れないのは、銀座という立地が悪かったのではないか?」と悩んでいました。意見を求められたので、僕は「アップルを日本で復活させるためにブランディングするには、銀座は最適な場所だ。あとはやり方だ」と言ったんです。するとスティーブが「彼は消費者視点だから信頼できるよ。だから安心して大丈夫」と後押しをしてくれました。 そしてスティーブが自分の部屋に戻ろうとしたとき、「ちょっと待ってスティーブ。一緒に写真を撮る約束をしたよね」って言いました。すかさず持っていたデジカメをロンに渡し、ツーショットを撮ってもらいました。スティーブって、目の前で機嫌を損ねるとすぐ社員をクビにしてしまうので、この写真はとっても貴重なんです。 「日本をなんとかしてくれ」スティーブは僕にこう言いました。「じゃあ、好きなようにやらせてくれ」それが僕の回答。そして日本独自のマーケティング手法でiPod miniを登場させました。 このアプローチが大成功してアップルのブランド力が一気にアップ、Macの売上も回復しました。ビジネス全体が勢いづいて、予想以上に早く日本市場でアップルを復活させることができたんです。 「もう自分じゃなくてもいいな」そう思い始めていました。最長3年しか働かないと決めていました。米国企業では上手くいって軌道に乗ると本国の言う通りにやれと指図されるケースがよくある。それは嫌だったので、もともとアップルも在籍はMax3年かなと考えていました。次のチャレンジをしたいという気持ちを抑えきれず、退職しました。 アップルで働いてよかったなと、あらためて思うことがあります。 アップルストアに行ったときに声をかけられるんです。初期不良のiPhone 7をアップルストア渋谷で交換してもらったときに「僕、以前は銀座にいたんです。前刀さんに盛り上げていただいて…」と感謝されたり、「お会いできて光栄です」なんて言われたこともありました。なんとそのスタッフは、僕がアップルを辞めた後に入社したと聞いてびっくり。アップル好きな人は歴史まで知っているんです。 人々がワクワクしてクリエイティブになれるものを―リアルディア 子ども向けの教育事業を行っています。とはいっても、親の価値観が影響するので、親向けの講演会なども行っています。 「DEARWONDER」という創造的知性を磨くアプリを使って、三田国際学園の生徒とキャリア教育をしています。中高生と一緒に会社組織のようなものを立ち上げ、学園祭に来た小学生向けのワークショップなどを開いています。学生と同じ目線になって活動するのは面白いですね。 「ワンダーラーニングでいこう」という考え方を提唱しています。 人がワクワクしながら好奇心をふくらませ、いろんな画像を検索して自由に創造したり、発信したりできるというプラットフォームも創っていますよ。 「年上だから育てよう」ではなく「一緒に育とう」―メンター三田会へのメッセージ 経験だけに頼った古めかしい話をするのではなく、これからの時代でも役立つようなことをともにするのが大切だと思います。上から目線ではなく、横からのフラットな関係で支援したい。 年齢的な差があるのだから、年上の会員から気を遣ってあげるべきだと思いますね。 学生でも会員でも、年齢に関係なく「いま」を生きてほしいです。いま起きているこの瞬間のことを考えてほしい。そのほうがメンター・相談者の双方のためになると思います。 学生も会員も互いに刺激し合って、いくつになっても成長することができる環境だといいなと期待しています。 若い人たちには頑張ってほしいですが、同じく僕もまだまだ頑張ります、負けませんよ! 自分を信じる心を持ち、常に自分の力で前進する とにかく前例がないことをやるのが大好きなんだよね。自分の手で0から成し遂げたい。自分ならではの価値を生み出したい。今ここに市場があるものを作って世に送り出すほうが、ビジネス的には楽だけど、それは嫌なんだよね。面白くない。 もちろん、そう簡単でないこともわかっています。不安に思い始めたらすごく不安になるもの。でも、自分を信じることが大切なんだよね。それこそスティーブが言うように「Have the courage to follow your heart and intuition.(自分の心と直感に従う勇気を持とう)」は僕も大切だと思います。 僕には「誰の真似もしない」というのがポリシーとしてあります。他人と比べるのではなく、昨日の自分と比べる。成長実感とともに生きていくのが良いんだよね。 とはいっても、自分が働いた会社の創業者は尊敬する人であるとともにライバルでもある。だから彼らには負けたくないという思いは強いです。 大河ドラマ「青天を衝け」の最終回には、すごく好きなシーンが2つあって。回想シーンで渋沢栄一が、畑を耕しながら「まだまだはげむで〜!」と叫ぶシーンと、山の上で太陽をつかむシーンです。まだまだやれるって感じがとても好きなんです。僕も無限の可能性を信じて、まだまだ前進していきます。










